山奥のひっそりとした秘湯にたどり着いたのは、偶然の巡り合わせだった。
その日、偶然のようでいて、どこか運命を感じさせる出来事があった。仕事の忙しさに疲れ果て、ひとときの休息を求めて訪れた山奥の秘湯。携帯の電波も届かないその場所は、現実から切り離された別世界のようで、ひっそりとした静寂と、わずかに湯気の立つ湯船だけが広がっていた。
日は西に傾き、空は茜色から群青色へと移り変わろうとしていた。周囲を確認すると、湯船には誰の気配もない。しばらく一人きりで温泉を満喫していたが、ふいに足音が近づいてくるのを感じた。
顔を上げると、湯船の向こうに若い女性が立っていた。26歳くらいだろうか。軽く会釈を交わし、彼女はそっと湯に浸かった。二人きりで温泉に入るなんてことは滅多にない。不思議な緊張感が漂ったが、ふとしたきっかけで会話が始まった。
「二人だけみたいだね。一緒に入ってもいいかな?」
自分の声がやけに大きく響いた気がした。彼女は少し驚いたようだったが、すぐに微笑み、「もちろんです」と答えた。
それからは会話が弾んだ。どこに住んでいるのか、普段どんな仕事をしているのか、温泉巡りが好きで訪れた場所の話など、話題は尽きなかった。湯気の中で月明かりが揺れるころ、時が経つのも忘れて30分、いや40分は話し続けていた。
ふとした沈黙が訪れたとき、自分は衝動に突き動かされるように、彼女の肩にそっと手を置いた。心の中では「拒否されるかもしれない」と覚悟していたが、彼女は何の反応も見せなかった。それどころか、肩越しに振り返った彼女の表情は穏やかだった。
胸の中で小さな確信が生まれた。「これはイケる」と直感的に思った。少し戸惑いつつも、「正直に言うけど…裸見たら正直耐えられなくなった」と、冗談めかしながらも核心をついた言葉を口にした。彼女は驚いた表情を浮かべたが、すぐに小さく笑い、やがてその場の空気は再び熱を帯びていった。
湯煙の中で起こった出来事の詳細は、どこか曖昧で夢のようだ。ただ、互いの気持ちが同じ方向を向いていたことだけは確かだった。
翌朝、彼女と別れるとき、自分は重大なミスに気づいた。連絡先を聞きそびれていたのだ。これほどまでに心惹かれる人に出会ったのに、なぜその一歩を踏み出せなかったのかと悔やんだ。
あれから日々が経ったが、彼女のことが頭を離れない。ふとした瞬間に思い出す彼女の笑顔や声。その出会いが運命のいたずらだったのか、それとも何か意味のあるものだったのか、今でも考えることがある。
もう一度だけでも会えるなら、あのとき伝えきれなかった気持ちを言葉にしてみたい。そしてこの出会いが偶然ではなかったことを信じたい。